Mosuke Yoshitake芳武茂介について


私の転機

昨秋木版画棟方志功氏をモデルにしたテレビドラマを見た。おおよそ私たちと年があまりちがわぬ画家の生涯が、小説のなりテレビドラマになるのは珍しい。セリフに「帝展」という言葉がしきりに飛び出す。今の人たちには考えられぬだろうが、帝国美術院が主催する官展に入選することが、当時の画学生、とくに田舎からでてきた若者たちの一大願望だったことがよく物語られていた。

 後年、氏の仕事が油彩から木版に変り、発表の舞台を官展から国展に移したこと、この二つは氏の生涯の大転機だったろうに、ドラマはそこに触れることなく、すんなりと済んだので私たちには物足りなかった。
 同じころ東京の国立近代美術館工芸館で開かれた「モダニズムの工芸家たち」という展覧会をみた。職人芸といわれた明治から大正にかけての工芸を、美術に 持ち上げようとする動きで、いわば今日の美術工芸の源流に当たるもの。時代は昭和の初期、ちょうど帝展第四部として工芸が参加する前後の代表作を一同に集 めた珍しい催しだった。
 年配の私たちは昔なつかしい先生がたを中心とする作品だが、今から見ればフランスのアールデコ、ドイツの構成主義はなやかなりしころの様式があまりにも露骨に出過ぎて、むしろ奇抜な感じさえするし、年を経るにつれてその露骨さが影をひそめてゆくのもまたおもしろかった。
 ちょうどそのころ、東京国立博物館の「日本金工芸展」も見た。奈良から鎌倉に続く各時代の保守的で格調のある宗教用具や武具に較べると、江戸末期から明治にかけての細工モノ然とした金工の姿に首をかしげたくもなった。
 モダニズム工芸家たちを立ち上がらせたエネルギーを理解するよき手助けになっていたようにも思える。
 実はかような見方をする私も、そのエネルギーの渦巻く極めて近いところに居合わせた一人なのである。
 学校でると仙台にあった商工省工芸指導所(のちの産業工芸指導所、いまの製品科学研究所)に勤めながら、官展の後身である文展・日展に入選しては喜び、 受賞しては喜んだ。しかし出品を続けてゆくうちに、美術に傾く工芸が装飾を競い、その日常性をいよいよ失っていく姿に疑問をもち、年とともに悩みは深まる のだった。私の専攻がたまたま金工で、進みゆく工業技術と対比しやすかったことも、悩みを深めることになったのだろう。
 昭和20年代末期、戦後の産業復興期とともにわが国に澎湃として起きたデザイン運動は、長かった私の悩みをたち消し、美術工芸を出てデザイン運動に勇躍参加する契機になった。
 モダニズムの工芸家の活躍したころから、美術工芸に対して民芸、また産業工芸という言葉があった。民芸が民衆のための工芸なら、使う側からみた言葉であ り、民衆の工芸たらしむるには、産業でまかなわなければ出来ぬから、これは造る側の言葉、要するに日常生活用具の良質主義にはかならない。
 技術の日進月歩の発生と民主主義社会の出現を踏まえた今日のデザイン運動は、工芸の各領域はもとより、工業製品から建築をふくめ、さらに絵画や彫刻さえ 大きく包み込む生活造型の良質主義を言っていると思える。私の場合では良質主義の拠りどころを、美術からデザインに移しただけなのである。
 私のまわりには既成の美術展などには目もくれずに、長い間デザイン運動を進めてきた多くの先輩や友人がいる。いわば転向者の私なのだが、先覚者や友人の 仕事には敬服して来た私にしてみれば、工芸を本すじに戻すのにやや、廻り道をたどったくらいの思いで、すんなりデザインの道に入れたのだった。
 昭和27年秋、友人たちの発起による日本インダストリアルデザイナー協会の発足に当っては心から敬意を表し、それに刺激されて後日の社団法人日本クラフトデザイン協会誕生の基礎づくりにはげんだ。
 試験所を退官した年、武蔵野美大に招かれて教師をつとめ、急増する男女学生を、デザイン人口に組み込むことが、デザイン振興に直結すると思い、かたわら 小さな事務所をつくり、ボツボツ仕事を続けられたのも、長く深い関係各位との交誼の賜物と感謝している。昭和49年はからずも国井喜太郎産業工芸賞を受 け、また同51年にはステーキパン、すきやき鍋などで、芸術選奨をいただくなどとは夢にも思っていなかったことである。

「国井喜太郎産業工芸賞の人びと」昭和59年、財団法人工芸財団

[2018.02.16]


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